田舎の課題を価値あるモノに変えて、みんなにお届け!

平穏無事の土台の上で、自分をそのまんま表現する

こんにちは、村長です。

このブログにしたためるのは、どれくらいぶりでしょうかね。
ブログだけでコミュニケーションを取っていた方々、ご無沙汰しております。

このブログを書いていなかった間も、当然ながら蒸留木酢液の製造販売はしていましたが、それ以外にも、新しい法人を立ち上げたり、新しい女性と再婚したり、新しい娘が誕生したりと、私なりに生きておりました。(詳細割愛)

そしてその間、私は「どう生きるか」ということを自身に問い続けてきました。これは2011年に鬱になって以来の私にとっての大きな課題で、それは表面的に「何をするか」という深度ではなく、「どう在るか」という自身の在り方への問いでした。その在り方さえ定まれば、自分の人生において迷いや悩みが少なくなり、前向きに考え行動する時間が増える気がしています。

で、現段階で行き着いた私の目指したい「在り方」は

「平穏無事の土台の上で、自分をそのまんま表現する」

というものです。

もう少し細かく文章にすると、家族をはじめ、私を支えてくれる精神的、物質的な環境をより確実なものにして、そこに絶対的な安定感・安心感がある状態を保ったうえで、自分は自分の気持ちや考えを素直に表現する生き方をしたいということです。

なんでそんなことを考えたかと言うと、もう鬱になりたくないからです。「平穏無事の土台の上で、自分をそのまんま表現する」という生き方をしている限り、私は鬱にはなりにくいと思うのです。

裏を返すと、その真逆をやると鬱のスパイラルに入りそうに思います。つまり、例えば、自身のプライドの高さから身近な人に強がってみせて信頼を失い、不安に駆られた状態で、本心とは裏腹に長い物に巻かれて不本意な「いいね!」を言ってしまい自己一致しなくなり、自分を見失って、だけど見せかけだけでも強がろうと鎧を被り、自分の弱みを出すことをさらに難しくして孤立し、解決の糸口がまるで見えない真っ暗闇に入ってしまう、こんなスパイラル。
(もちろん鬱になるにはいろんなパターンがあるでしょうからこの限りでは全然ないと思います)

自身の苦い経験からそういう考えに至った私は、「平穏無事の土台の上で、自分をそのまんま表現する」、そんな生き方をしたいし、そんな生き方に共感してもらえる人と過ごしたいのです。

 

「楽しみたい」より「個を犠牲にしてでも」の側で生きていると「自分をそのまんま表現する」のは難しい

とまぁ、それが健やかに生きる理想だと思っていても、「自分をそのまんま表現する」のは難しいもんです。周囲の目がありますからねぇ。

いろいろ考えました。そもそも人間社会ってなんでこんなにめんどくさいんだろう。助け合って、いがみ合って、憎しみあって、愛し合う。実にめんどくさい。

以下は、そんな人や人間社会に対する、私なりの解釈です。

人には「個」として人生を楽しみたいという願望と、「種」として保存・繁栄していきたいという願望が、それぞれ本能レベルで内在しているように思います。そして人は一人では生きていけない生き物だから、それら「楽しみたい」「繁栄していきたい」を実現するために、「社会」を築き上げ、共同体で過ごしているんだと思います。

家族や親族、地域社会、国家も全て「社会」だと思うんですが、ここで注目したいのは、人によってこの「社会」の捉え方が2通りありそうだということです。

⑴【個人主義】「個」として人生を楽しむことに重きを置く人
→「社会」は、個人が人生を楽しむために、不足を補い支え合う基盤だと考えている。
(この場合「利己主義」とは別)

⑵【全体主義】「種」として保存・繁栄していくことに重きを置く人
→「社会」は、個を犠牲にしてでも、その繁栄が優先されるものだと考えている。

つまり、「社会」は一人ひとりの「個人」の生活をより豊かにしてくれる一方で、逆に「社会」を繁栄させるために「個人」が犠牲になって苦しめられることもある。

これらの「個人主義」や「全体主義」のような思想は、おそらく後天的な環境によって刷り込まれていくものだと思うんですが、「個人」or「全体」の優先順位が真逆の思想のどちらでも容易にインストールできてしまうのは、いずれも本能にフィットする思想だからなんじゃないかと考えています。ただ、はやりこれらは二律背反する思想だから、「自分の人生を楽しみたい」と「個を犠牲にしてでも社会を・・」の両方をインストールしてしまうと、その狭間でバグってフリーズし、自身の立ち位置が判然とせず自己矛盾を抱えたまま仕方なく集団の中に居続ける、なんていうことになるのかもしれません。

さて、この「個人主義」と「全体主義」は個人や社会の捉え方の話だから、どちらが正しいとか間違っているとかを言う気はありませんが、とは言え、それぞれの個性を発揮し合ってる人たちの集合体と、全体のために個性を押し殺して力を出している人たちの集合体とでは、その総合力の大きさは変わってくると思うし、この一度しかない人生を楽しめそうなのがどちらなのかは、火を見るより明らかですよね。

私は以前は「全体主義」的な要素を持ち合わせていましたが、鬱を経験してからはかなり「個人主義」に寄ってきました。どうもこの「全体主義」の思想には鬱の原因が多く潜んでそうで、今では、個を尊重しない、基本的人権を尊重しない「全体主義」の人には意識的に近づかないようにしています。

そうそう、「全体主義」の人は、全体の秩序を守るために、その社会での常識や主観的な道徳観を押し付けてくる傾向があります。「徳治主義」ってやつですね。男らしさ、女らしさ、若者らしさ、日本人らしさ、そんな耳障りの良い言葉を巧みに使いながら、「〜すべきだ」と押し付けてくるのです。中には「良かれと思って」伝えてくれる人も居ますが、邪気の有無に関係なく、そのような基本的人権を侵害するような関わりは各人の生きづらさを生み、終いには心が病んでいくことになっていくんだろうと思っています。

「出る杭は打たれる」なんてことをちょくちょく耳にしますけど、本当にその通りだと思います。出ようとするとすぐ社会常識で叩いてくる。

だけど、「出過ぎた杭は打たれない」ようですね。諦められるのかな。その域に達すると自己一致して気持ちがいいですよねー。自分の言葉と行動が一致する。あー、なんて清々しいこと!そしてそうやって出過ぎるためにも、平穏無事の土台があった方がいいと私は思っています。

あ、ちなみに、出る杭は打たれ、出過ぎた杭は打たれず、出なかった杭はどうなるのかというと、そのうち腐ってゆくらしいですね。

私は腐りたくないし、もう鬱にもなりたくないから、社会の常識に囚われず、自分の言いたいことをそのまんま表現します。誰がなんと言おうと。そしてそれを実現するために、「平穏無事の土台」を作るのです。

 

「平穏無事の土台」のために取り除きたい3つの心配事−①お金

では前半に戻って、「平穏無事の土台」とは一体何なんでしょうか。もちろんそれは人によって捉え方が異なるんでしょうけど、今の私にとっては「心配しなくて良い、平穏で居られる場」と言えます。人生に心配は付き物かもしれませんが、できるだけその心配をせず、心穏やかに過ごしたい。

そうそう、世の中の心配事は「お金」「人間関係」「健康」の3つに大別される、なんていう話を聞いたことがありますが、まさにその3つの心配事を払拭するような土台を作りたいと考えています。

まずは「お金」。
私は大学卒業後は経営が安定していた上場企業のサラリーマンをしていましたが、そこを退社して、この零細企業を経営するようになりました。サラリーマン時代は、自分の収入が高いとは感じませんでしたが、それでも経済的な安定感を感じてはいました。そこから転職して収入は2/3程度にまで落ち、そこからなんとか上げてきてサラリーマン時代を超えたものの、相変わらず安定感は欠いたままで、もしかしたら来年は収入が激減してしまうかもしれない、という不安が付いて回っています(今や大企業のサラリーマンだってそうかもしれませんが)。それもあって、近年では株式会社みんなの村の事業以外にも、人材育成事業や地域課題解決事業などを行なうことで安定感を高めようとしてきました。

そうしてお金の稼ぎ先が増えると、確かに数字上の安定感は高まりますが、じゃぁどこまで稼ぎを増やしたら自分の内側に潜む不安を払拭できるのかと自身に問うてみると、いくら稼ごうが安定するかどうかなんて誰にもわからないから、結局は不安を完全に拭い去ることなんてできないんじゃないの?という結論に至りました。

じゃぁ、いつまでも不安なままじゃんかよ(笑)
お先真っ暗です。

こうして問題の袋小路に入ってしまった場合には、私はいつも「抽象思考」で抜け出すようにしています。目の前にある具体的な問題から、もう一段抽象度を上げて考える。この場合、「お金を安定的に稼ぎ続けることができるかどうか不安」という問題の抽象度を上げると、「そもそもなんでお金って必要だと考えてるんだっけ?」みたいに考える感じかな。

ひとまず私の中では、お金を求めるのは、そのお金で物やサービスを買うことができて、それによって豊かな人生を送られると考えているからだという答えに行き着きました。じゃぁその人生を豊かにしてくれる物やサービスってお金がないと手に入らないんだろうか?そもそも豊かさって何だろう?

抽象思考はヘタしたら迷子になりそうですね(笑)

私は、お金で買えるもので、人が豊かに生きていくうえで絶対に欠かせないものが4つあるとしたら、それは、

⑴「食」
⑵「住居」
⑶「エネルギー」
⑷「教育」

なんじゃないかと考えました。だから、これらをある程度自給できれば、そこまで無理してお金を稼ぐ必要はないんじゃなかろうか。お金を稼ぐ必要がないなら、当然ながらお金に関する心配事はかなり解消されることになります。

⑴「食」
自宅には畑や果樹があることもあって、「食」は比較的容易に手に入ります。これは田舎の特長。また水は、以前に父親が地下80mまでボーリングしてくれたおかげで、飲み水に適した綺麗な水を手に入れることができています。菌も検出されないから、塩素いらずのミネラルウォーターが蛇口から出てくる日常です。

だからいざとなれば、「食」は高い自給率で賄うことができそうです。

しかし、大好きな芋焼酎は、どうしてもお金がかかりますね。自作すると脱税やもんなー。

⑵「住居」
今現在、「住居」は自宅が一つと、あとこれから農家民宿にしようとしている物件が一つあります。私は実はその農家民宿で自己表現したいんですね。で、その農家民宿の購入に際しての借り入れがまだ残っているので、しばらくは現金が要りますね。さらにリフォームやランニングコストがあまりかからないような設備投資、まぁつまり⑶のエネルギーに関わる投資なんですけど、それを今のうちにしておこうと思っているから、今がガマンのし時です。

とは言え、田舎は土地が安いので、住居を比較的安く手に入れることができます。また、それも将来的にお金を生むための投資でもあるので、そこで回収できれば御の字です。

⑶「エネルギー」
そして「エネルギー」。現在のところ会社社屋の屋根などに太陽光発電で電気エネルギーを作っているので、売るほどあるというか、売っています。将来的にも電気エネルギーは自給できそうです。

ただ、現状だと問題が2つ。

・昼間は発電しても、太陽光の当たらない夜をどう対応するのか。
・電気エネルギー以外のエネルギー源を持っておかないと何かあった時に対応しづらい

⑷「教育」
人材育成の事業を立ち上げ、論理学と心理学を学んできたので、我が子たちへの教育の高い自給率を実現することは可能だと考えています。さらに、個人的にはコスパの悪いと感じている大学には進学しなくていいと親としては思っていて、もっと言うと中学校を卒業したら高校にも進学せず私と一緒に働いてくれたらいいのに、とすら思っているので(笑)、もし本人の意思と合致してそれが実現すれば、教育コストもかなり減らせると思っています。

このように見てみると、

⑴「食」→水を含め、自給率高め。芋焼酎だけは仕方ない。
⑵「住居」→ローンがあるし、ランニングコストが下がるような設備投資をするので、今はお金がかかるけど、自分が自己表現する場づくりにかかる費用だから仕方ないと思うのと、将来的に回収できたらラッキー。
⑶「エネルギー」→すでに売る程の電気があるけど、夜間対策とエネルギー源の多様化が課題
⑷「教育」→子どもたちの意思次第では、自給率を高められる

ということなので、⑵の投資を済ませ将来的に事業を軌道に乗せ、⑶の課題をクリアにすれば、人生を豊かにするものの自給率が上がってお金の心配が減るんじゃなかろうかと思います。というわけで、今後⑵と⑶に着手します。そして、お金の心配から遠ざかりたいと思います。

ちなみにすでにちょっとは着手していて、農家民宿の改装で使う壁土を、この夏の暑い時季から熟成させています。混ぜるのが面倒なので、ユンボでギャンギャンとやってます。

壁土が発酵するように、ユンボでいじってます

壁土が発酵するように、ユンボでいじってます

 

「平穏無事の土台」のために取り除きたい3つの心配事−②人間関係

人間関係って難しいですね。タイミングもありますしね。
私は人間関係で最も大切なことの一つに、「依存と自立を行き来できる関係性を築くこと」があると考えています。

これは精神科医の明橋大二先生から学んだことなんですけど、「人間は依存と自立を繰り返して生きていくものだ」という話を伺った時に、目から鱗でたいへん感動したことを覚えています。実は自分が鬱になった原因もここにあったんですよね。自立したい時に邪魔をされ、依存したい時に見放され、私の心は折れてしまいました。

その精神構造が分かってからは、私は自分の心が折れないように、甘えたい時にちゃんと甘えさせてくれて、自立したい時にちゃんと見守ってくれる存在を持つようにしました。その代表格は妻で、妻とは一緒に発達心理学を学んだこともあって、お互いの精神状態の良好さを保てるような関わり方をしています。まぁ、たまには機嫌が悪くなることもありますけどね。でもそれは長引きません(のはず)。もちろんこの考え方は育児にも役立っていますし、先の「教育の自給」にも繋がります。

また、妻以外にも男女問わず、自分の心が折れそうな時に依存できる人がたくさん居ます。そしてその人たちにも、依存と自立のメカニズムをお伝えしてあるので、お互いの関わり方が良好です。

ちなみにこれは2016年度から関わっている朝来市地方創生の人財育成プロジェクトの一環で作成したパンフレットで、依存と自立を繰り返しながら人は成長することをイメージした図です。ご参考までに。ご監修いただいた明橋先生には、感謝感謝でございます。

人の心が育まれる好循環「自己肯定感ループ」

人の心が育まれる好循環「自己肯定感ループ」

また先日は朝来市役所の広報誌、並びにウェブサイトに、その自己肯定感を育む人財育成について寄稿しました。
http://www.city.asago.hyogo.jp/cp/0000007145.html

とまぁ、人の心がいかに育つかという理論を教わったとは言え、それだけで人間関係がうまくいくわけではありません。

前述の通り、私は「全体主義」の思想を持つ人たちとは馬が合いません。コミュニティを維持することが至上命題とも言える中で、そのコミュニティの中で長い物に巻かれず自分をそのまんま表現すると、時として「和を乱す者」と捉えられ、いろいろ面倒なことが起こります。

よくあるパターンは、役所や地域の組織などの運営の仕方が杜撰で、そのまま放っておいてはケガをする、失敗するようなシーンに出くわした時に、私は発言してしまうんですよね、それアブナイからこうやって変えた方がいいんじゃないのか、って。

だけど彼らの多くはより良いものを生産するよりかは、前例をきちんと踏襲してコミュニティを維持することを優先するので、そこで意見がぶつかってしまう。

私がより良いものを生産するために、彼らの常識の枠の外のことをやろうとすると、前例踏襲の全体主義の人には理解してもらえず、非難されることもしばしば。そして民主主義では多数決という「数の暴力」でコトが決定されるので、私の意見は通らないし、提案した私は順次、蚊帳の外へ(笑)

そうなると「和を乱す者」は「村八分」(村長なのに!w)。特に田舎ではその村社会の要素が強いかな。彼らの特徴は「閉じている」こと。オープンでいたい私とはそりゃ合わんですわね(笑)

こうして全体主義の中の個人主義はイジメに遭いやすく、傷つくわけです。40歳になった今でも、そんな心が傷ついた時には家族をはじめ、多くの人に甘えさせてもらって英気を養い、また自分の思いや考えを表現できる精神状態に戻してもらっている感があります。人間社会において孤独、孤立は恐怖ですからね。

このように、ここまで自然の流れで順次蚊帳の外に出て来れたので、この流れに抗うことなく、外に居続けようと思っています。きっと、私の心の依存と自立の適度なバランスを取るには、私にはアウトローが向いているということなんでしょう。世間様のど真ん中だとすぐ孤立してバランス崩しちゃう。

閉じている人は、それによって秩序を保っているわけだから、そのスタイルを尊重して彼らは彼らのコンフォートゾーンで人生を楽しんでもらって、私はアウトローに、小さく、だけど開かれた平穏無事な土台を創って、そこから自分の思いをさえずりたいと思います。その方が双方にストレスもなく、メンタルヘルス的によろしいかと。

そんなさえずりに共感される方がいらっしゃったら、その方とも一緒に、アウトローでさえずりたいですね。農家民宿はそんな「みんなの村」の場になりそう。

 

「平穏無事の土台」のために取り除きたい3つの心配事−③健康

私は、健康を維持するために最も大切なことは

・ストレスを溜め込まないこと

に尽きると思っています。他にもいろいろありますよね、

・アルコールを控えること
・減塩すること
・野菜を多く摂ること
・適度な運動をすること
・良質な睡眠を取ること

などなど。しかしそれら具体的な手段は体質にも依るので、一概には言い切れないように思います。私は年間360日ほど泥酔してますけど、おかげでストレス発散できてますし、減塩も意識しないですね。塩っけがないと美味しくないものがけっこうあるし。野菜は多めに摂ってると思いますし、運動はテニスが好きで最近ハマってます。睡眠は枕を変えて、抜群に質が向上しました。枕は「100匹目の羊」さんがオススメ♡ ということで、今のところ元気です。

なので、そういう具体的な手段は人に依る、と。だけど、「ストレスを溜め込まない」というのは万人に適用される健康維持の手段だと思うんです。

そしてそのストレスを溜め込まないためにも、前述してきた

・自分をそのまんま表現する
・お金の心配を減らす
・人間関係の心配を減らす

ということが大切で、ここはリンクしてそうですね。まぁ考えてみたら、当たり前か。高ストレス下である鬱状態になりたくなくて「平穏無事の土台の上で、自分をそのまんま表現する」生き方を選んでいるわけだから、そんな生き方をしようとしてるんだから、自ずとストレスは減りますわね。

以前は36.5℃くらいだった平熱が、最近37.0℃あたりまで上がってきてるんですけど、これはストレスが減って免疫が高まってきたからでしょうか?なんせ、ストレスには気をつけています。

平熱37.0℃

平熱37.0℃

 

ここまでツラツラと書いてきましたが、私はもう鬱になりたくないので、「平穏無事な土台の上で、自分をそのまんま表現する」生き方を目指していきます。そのためにアウトローな農家民宿をはじめとして、これから私が理想とする村社会を創り、そこで自分の思いを表現していくので、面白そうだと感じられたら、ぜひ遊びにいらしてください。

ただ、ブログを書くのが面倒なので、更新頻度は低いかもしれません。悪しからず。SNSの更新頻度は高いんですけどねー。なんかブログだと構えちゃう。なので、次回の投稿がいつになるのか、私自身さっぱりわかりません!気の向くまま!ストレスフリー!

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